平和で生きがい、 働きがいのある

 「高度福祉社会」の実現を

 今年から800万人の団塊世代の60歳定年退職が始まりました。 60歳以上の高齢者人口割合は20%を超えて急速に25%に近づいています。定年退職年齢60歳からの平均余命も25年を超え、 60歳退職後の人生が、 出生から成人するまでの20年間より長いという時代が一層進んでいます。 少子化についての抜本対策とともに、年金・医療・介護などの高齢者社会保障制度の抜本的改革や、 就業・NPOボランティア活動・生涯学習などの積極的な社会参加を促進する対策が一層求められています。 これまで以上に取り組みを強化しましょう。

 9.14地公四単産・地公退高齢者集会−

 9月14日、 東京・日本教育会館において、 地方公務員の4つの労働組合 (自治労・都市交・全水道・日教組)とその退職者協議会の主催による 「9・14地公四単産・地公退高齢者集会」 が開催され、 約700人が参加しました。

 来賓として阿部安吉 (退職者連合事務局長)・小宮山洋子 (民主党参議院議員)・福島瑞穂 (社民党党首) の方々の挨拶の後に森田実(政治評論家) の 「参議院選挙後の政治情勢」 と題する講演がありました。 そして、 地公退・真柄栄吉会長の主催者挨拶の後、 「働く者と高齢者の連帯で生きがいのある平和な福祉社会の実現を」とする基調が報告されました。

 9.15全国高齢者集会−

 9月15日午後、 日比谷公会堂で高齢者集会を開き、 2千人が参加しました。

 真柄会長の 「早期解散・総選挙で政権交代を実現しよう」 との挨拶の後、 連合から高木剛会長、 民主党から円(まどか)より子参議院議員、 社民党から福島瑞穂党首が来賓挨拶をしました。

 集会後、 晴天・カンカン照りのなかで、 新橋・銀座通りを経て鍛冶橋まで、 約3qを 「安心・信頼の社会保障制度を確立しよう」と訴え、 元気よくデモ行進をしました。  

 高齢者集会では、 秋から来年1月中旬まで、 安心・信頼の社会保障制度を求めて以下のような内容の署名運動を展開することを再確認しました。

・年金制度については、 @消えた年金記録の早期回復、 Aマクロ経済スライド方式の廃止。  

・医療制度改革では、 後期高齢者医療制度の実施に当たって、 保険料、患者一部負担の引き上げ反対

・税制改革では、 公的年金控除はもとより、 年金 の各種控除の縮小・廃止に反対。

 −小泉・安倍政権で苦しめられてきた高齢者−

 9月12日、 安倍首相は、 その職の辞任を発表しました。 参議院選挙で国民の信を失ったときに退陣せず居座り、内閣改造し、 臨時国会で所信表明まで行い、 代表質問の直前突然の辞任とはあまりにも無責任です。 しかも迷惑をかけた国民には一言の謝罪もありませんでした。

 このような無責任な安倍内閣は小泉政権がすすめてきた政策を引き継ぎ高齢者の負担を強めてきました。 高齢者いじめの政策だけを年度別に並べると次のようになります。

年度

高齢者いじめの政策

2001

高齢者マル優の段階的縮小・廃止

2002

老人医療費の改悪

2003

介護保険料引き上げ(65歳以上の被保険者)、年金物価マイナススライド0.9%実施

2004

生活保護老齢加算廃止(3年間)、介護保険料引き上げ(65歳未満の被保険者)と年金物価マイナススライド0.3%実施、厚生年金・共済年金保険料引き上げ(毎年)

2005

所得税の公的年金等控除の縮小(65歳以上の最低保障額140万円→120万円)、老年者控除廃止(一律50万円控除の廃止)、国民保険料引き上げ(毎年)、施設介護における食費・居住費(ホテルコスト)全額自己負担

2006

個人住民税の公的年金等控除縮小(公的年金等控除の65歳以上の50万円上乗せ措置の廃止)、65歳以上の最低保障額は120万円→70万円)、老齢者控除廃止(住民税48万円控除の廃止)、年齢65歳以上で前年の合計所得金額が125万円以下のものに対する個人住民税の非課税措置の段階的廃止

高校生平和大使派遣費用にカンパを!

私たちの平和への願いを若者の手に託そう

平和への心を示すに足るカンパを実現しよう

  国連に 「高校生平和大使」 を派遣する取り組みは、 1998年に長崎の高校生が中心となり「被爆地の願いを世界に」 を目的にはじまりました。

 1998年に私たちの願いもむなしく、 インド・パキスタンで相次いで核実験が強行され、その成功に歓喜する両国民の姿を見ました。 その映像は、 私たちに理念的にも現実的にも圧倒的多数の人々は、 核の力を信奉している現実を突きつけました。 その時私たちの運動の原点である「核兵器廃絶は世界の願い」 と言う考え方は、 現実のものになっていない、 現実のものとするにはどうしたらよいのかを問われました。 翌年からインド・パキスタンのジャーナリストを広島・長崎に招聘する事が始まりました。高校生平和大使の運動も両国の核実験で挫折感の漂う運動の中、 なんとしても平和の心を国連に、 世界に届けようとの思いからはじまりました。

 神奈川では、 神高教が中心となり2005年から高校生平和大使を選出し国連に送る運動に取り組みました。毎年20人を超える応募者がありその中から大使・随行員の2人が選出されています。 選出されなかった人々もみな、 この運動に共感する高校生です。 より多くの応募者が大使・随行員となると共に応募者全員が何らかの形でこの運動に参加できるようにすることは重要なことと思います。

 シニア運動に結集する多くの元神高教組合員の皆さんは、 昨今の平和を巡る状況に 「平和憲法を大切に」 の視点から危惧感を深めていることと思います。私たち自身ができる限りの運動を進めることは勿論のことですが、 若い高校生が 「平和について考え行動すること」 を支援することはさらに重要なことと思います。 是非「高校生平和大使」 に応募してきた高校生全員が平和大使・平和運動に参画できるように支援したいと思います。 私たちの平和への想いを高校生平和大使運動に託して行くために積極的にカンパをお願いします。

 

★☆★ シ ニ ア ラ イ フ ★☆★

武勇伝、武勇伝!

武田利邦(03・商工)

 2004年3月に定年まで一年を残してやめた後、 今はNPO法人となった 「かながわ外国人すまいサポートセンター」で事務局長を一年つとめました。 今は理事として関わっています。  その年の9月初め、 窓口に現れた若いタイ人の女性がいました。 彼女は山岳少数民族リス族の出身でした。 彼女の姿の異様さに気づいたのは女性のスタッフでした。「武田さん、 彼女、 はだしで、 足もまっ黒で、 きっとお風呂にも入っていないわ」  彼女は1月半も横浜公園でホームレスをしていたのです。 「すまいサポートセンター」 ですから、 外国人のすまいを捜すのは仕事ですが、しかし、 先立つものがなければどうしようもありません。
 タイ語のできる人を紹介してほしいと、 たどたどしい日本語で訴える彼女に電話での通訳で事情を確認しました。
 チェンマイのみやげもの屋で働いていた彼女が、 観光でやってきた日本人の男性と結婚して来日したのは7年前でした。 子どもが二人生れました。2人目の子どもが生れた後、 夫はリストラもあって暴力をふるい始めました。 離婚の裁判で一審では勝ったのですが、 子どもを連れて、 ことばがわからない彼女は、 結局、子どもを夫にとられて、 一人公園生活をするはめになったのです。
 D.V.で家を出された女性のためのシェルターを東京まで含めて捜したのですがどこも満杯でした。 いくつかの保健福祉センターを訪ね歩いた末やっと、生活保護をとりつけ安アパートに押し込み、 相手が控訴した東京高裁での裁判に臨みました。
 アジア系女性の支援をしている市民グループ 「セポム」 の大島静子さんから、 すぐれた通訳ボランティアを紹介してもらいました。
 この類の離婚裁判で、 かつて、 外国人の女性が勝ったことはないそうです。 一方で、 とりわけ日本人と結婚したアジア系女性が夫のD.V.で、小さい子ども連れで家を捜しに 「すまいサポートセンター」 の窓口をおとずれるケースはあいかわらずふえています。
 裁判の結果は予想通り、 二人の子どもの親権は日本人の夫に行きました。 しかし、 女性の弁護士のがんばりで、 一審での慰謝料がそのまま認められたのです。大島さんが 「武田さん、 慰謝料が認められたのは初めてよ」 と言ってくれました。
 彼女が帰国して、 しばらくして、 わが家に大きなダンボールが届きました。 中から出てきたのは 「リス族」 のカラフルなデザインのショルダーバッグ、キャリーバッグ、 コインケースなどでした。
 ぼくは今、 仕事の傍ら、 あちこちのバザーなどにお願いして、 この 「リス族民芸品」 の行商をやっています。
 ※このケースについての詳細は 「神奈川人権センター」 刊のブックレット 「格差社会と差別」 に書かせてもらいました。

 

「私の夢」

―今、考えていることー

古座野郁子(99・二俣川)

私は二十代のころ、 小児科の看護師でした。

 短い臨床経験でしたが仕事柄、 たくさんの子どもの生と死をみてきました。 まだ 「燃えつき症候群」 や 「3K」 などの言葉が使われていない時代でしたから看護は自分の天職だと思って素直にがんばっていました。
 40歳のとき、 年齢制限を越えて教員に採用され20年間、 看護高校で勤務しました。定年退職後は非常勤講師として今、 9年目を迎えています。
 そして最近、 この仕事をどこでどんな形で終らせようか考えることが多くなりました。 きっかけになったのは、 もっと広く社会にかかわってみたいという大きな夢が湧いてきたからです。
 海外旅行が好きで、 退職後は毎年ヨーロッパ方面を中心に旅をしています。 そのたびに思うこと、 西洋文明の原点にある思想や芸術・歴史の核とは何なのかを知りたくて三年前から四ッ谷にある大学の聴講生として一週に一日通っています。
 聖書学や心理学を聴講しながら、 知識を学ぶだけでなく、 まるでカウンセリングを受けているような平穏な気持ちになれるのです。その上、 教授たちは私語する学生をどのように注意するのか、 授業の展開方法、 プリントや資料の作り方などは教える側の私にとっては高校の授業の参考になることがたくさんあります。もっとも本音は 「学生として講義を聴くのは、 なんて楽で幸せなことだろう」 が率直な感想です。 お昼どきは、 教室の片隅で学生の中に紛れて弁当を食べながら、 他愛もないおしゃべりに、いまどきの若者の悩みやありようが耳にとび込んできます。
 いまさらなぜ大学なのかと聞かれると 「趣味です」 と答えていましたが、 聴講生三年目ともなると、 趣味として自分の中にとどめていていいのかという疑問がわいてきました。現役の二俣川高校時代、 看護を学ぶ高校生の授業で話していた 「ターミナルケア」 をもっと学んでみたいというテーマが具体的に見えてきました。
  「自分の死生観をもちなさい」 と生徒には話しながら、 果して私自身はどう思っているのか言えないことに気がつきました。そんな気持ちで周囲を見わたすと、 聴講生として通う大学の公開講座の中に 「死生学」 のテーマを見つけ十月から受講予定です。 七十歳も一歩手前にきて行動力も知的好奇心も継続できることに自分でも驚いています。人間の生命の限界が120年なら、 まだ折り返し点から十年過ぎただけだと思うと、 そんなに無理でも背伸びでもないと思っています。もとにあるのは家族の協力と、 自分の健康と、 多少の経済的なゆとりかなと、 考えますがいかがでしょうか。
 最近、 生と死をもっと具体的に行動を伴い活動をしながら考えていきたいとある市民グループに参加しました。 ボランティアというより自分自身の来るべき日のための学びです。
 この原稿を書きながら、 この文章の中に何回 「死」 という文字を書くのか、 内心気がかりです。 私たち医療に近い人間は当然のことと考えられますが、一般の社会に暮らす方には非日常的な文字です。 きっと読んでくださる方の中には抵抗を感じる方がいらっしゃるのではないか心配です。
  「生と死」 を考える授業は、 数年前も高校2年生の授業としてとりあげました。 高村光太郎の 「レモン哀歌」・宮沢賢治の「永訣の朝」 の詩を教材にしましたが、 最初は岩手の方言にゲラゲラ笑っていた生徒が最後には真剣に感想を書いてくれました。 高校生は 「死なんて縁起でもない」 という否定的なものではなく、前向きに素直に受け止めてくれてホッとしました。 私の専門科目は看護であり福祉系であることに幸せを感じた時です。
 はじめに戻りますが短い人生で生命を終えていく、 病気の子どもたちを見ていると、 大きな抗えない力に圧倒されます。いくら職業とはいえ生きていく人間として何かを考える役目があるのではないか、 と、 この五十年近く思っていました。 人間は 「なぜ生きて死んでいくのか」 をこれからのテーマとして楽しく学んで考えていきたい、これが私の夢です。
 定年後、 退職者の写真同好会に入り趣味としてはじめた写真も、 人間の愛らしさを中心に撮りたいと夢は更に広がっています。